学校教育に関して批判的になってみる
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フリーランスになってから語る教育の価値
他に書く内容を考えていたのですが、どうも満足する出来にならなかったので、突如思いついた「教育」というテーマに関して思いのままに書きなぐることにしました。
私は、学生時代に対して良い思い出がほぼないので、悪いようにしか言えないのですが、今の学校教育にどれだけの価値があるのかが疑問です。
教職に就く方には申し訳ないことですが、このシリーズの記事はネガティブで批判的なものとなります。
完全な閉鎖社会
学生時代、私のカバンから物が盗まれたことがあります。
その際、まともに対応は行われませんでした。
金銭価値があるものを学校に持ってきた私が悪いような結果で終わりました。
しかし、今の「常識」に則って考えると、あまりにもおかしい展開でした。
まず、被害者は私だけだったのでしょうか。
「鍵をかける」と言われた教室の中で、「何が入っているかわからない」「私のカバンだけ」が、「ピンポイントで」狙われたのでしょうか。
未だに、疑問が残ります。
他に本当に被害者がいないのであれば、私がそこまで狙われていて、その日たまたま現金を持ち込んでいたことを知られていたことになります。
私は、「被害者」は他にもいて、各自で教員に相談はしていたものと考えています。
当時は初めての事態に混乱していましたが、一人だけが被害を受けているものとは考えにくいです。
少なくとも、教員が「鍵をかけ忘れた」のを隠蔽したかったのではないかと考えます。
さて、これが一般的な組織であればどうでしょうか。
まず、調査が行われるはずです。
鍵を本当にかけていたなら、ドアが蹴破られるか、ピッキングが行われたか、鍵が不正に持ち出されたかのいずれかの深刻な事態となります。
年を重ねた私が「普通」に考えたなら、他に被害者がいないかを真っ先に調べます。
そして、然るべき手順を踏みます。
場合によっては警察の介入もありえるでしょう。
しかし、それらのことに触れられることは全くありませんでした。
完全に、事件自体が封殺されてしまいました。
結果として、何一つ対応がなされなかったのは、教師に対する信用、学校の制度に対する信頼をすべてなくすのに十分な条件です。
今となっては、「教育者」は「無教養」であるとさえ思ってしまいます。
学校という場所は、閉鎖社会を学ぶ場所だったのでしょうか。
教科書があれば十分なのではないのか
「教育」や「教養」が大切なことはわかります。
では、学生生活の中で、教科書以上に得るものがあったかというと、少なくとも私にはありませんでした。
なにせ、普通に授業を受けていたら赤点だったのが、春休みに自力で勉強したら急激に成績が良くなるという体験をしています。
その教科書にしても、市販の受験用の参考書のほうがわかりやすいです。
教師が語る時間をそのままドキュメントを読む時間に当てたほうが有意義のように思えます。
これは、サイバー大学に入学した今でも感じることです
※なので、実際に手を動かす演習系科目は楽しいです。
進歩のない世界
学べるということが貴重な機会であることは理解しているのですが、それでも思ってしまうことがあります。
教育という分野は、「寺子屋の時代」から進歩していないのでは、という疑念です。
人によって成長する速度は違います。
ましてや、幼年期は急激な成長時期でもあるので、それぞれに合わせた計画が必要だと考えます。
学校という箱の中にまとめて放り込むことの意味は理解できます。
一定の教育を与え、一律した能力を身につけさせることには意味があるのでしょう。
しかし、それ以外の選択肢を取れないということに価値を感じられません。
悪く言えば、頭のいい人の劣化コピーを大量生産するだけになってしまいます。
成長が早くて頭のいい生徒はもっと早く外に出ていくべきですし、そこから発生する落伍者を上手くサポートする体制を整えるほうが健全だと考えます。
まとめ
結局は、私自身が「学校教育」が大嫌いなので思うがままに書いてみましたが、思った以上に筆が乗ってしまいました。
ある意味、鬱になって落伍者となりフリーランスとして再起したからこそ、考えることが出てきます。
少なくとも、私には今の学校教育に関して、その形態を取る「意味」は理解できても「価値」は感じられません。