諸君!階段から蹴り落とされたことはあるか?
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ありえないことをする人間はいる
ネガティブ教育シリーズ第2回
タイトルからして厄ネタとなりますが、この手の厄ネタはある意味人の役に立つ可能性があるので、いっそこれもネタにしてしまうことにしました。
「クズ」という単語を多用しますが、ご容赦ください。
それ以外に的確にそれを表現する単語を私は知りません。
※DQNとかでもよいのかもしれませんが、ネットではない現実の話なので。
※ネガティブにすぎるネタですが、ブラックジョークみたいなものとして笑ってもらえれば一番の救いです。
私は階段から蹴り落とされたことがある
まず、このときに本当にまずい事態は3つありました。
- 蹴り落としてくる人間がクズであることを知っていながら、それらが後ろにいる状況で、私は階段を降りた(複数人いる、という状況を無視してしまった)
- クズでも、そこまではしないだろうという、人間を信じることをこの時はまだ正しいと考えていた(と言うか、そこまでするほどの馬鹿の存在を考えてすらいなかった)
- 怒りを正しく発散できなかった
幸い、大事には至らなかったのですが、この時ばかりは相手に明確な殺意すら抱きました。
その後私が取った行動は、なんとか怒りを押し殺し、外に出てコンクリートの壁を、全力で殴りつけることでした。
何度壁に叩きつけたかはわかりません。
血まみれになった手があっただけでした。
幸い、骨は異常がなかったようです。暫く手は握れませんでしたが。
※凄いね、人体!
以前記事にしたように、ろくでもない学校だったので、大した処置は取られませんでした。
教師にとって、人を階段から突き落とすという事態は大したことではなかったようです。
※なお、地方の公立校の話です。
田舎の人は優しい、教師は聖職者、などという幻想は本当に捨てたほうが良いと進言します。
学校という場所は上記の記事で書いたように、ひどい閉鎖社会です。
仮に、私が死んでもまともな対応は行われなかったでしょう。
おそらくは事故で終わったのではないでしょうか。
しかし、私が怒りに任せて行動した場合は、私が少年院入りしていたことも想像に難くありません。
他人の善性に期待する生き方は貫き通せない
私は、この後、人の善性を期待して何かを行うことはただの馬鹿であると断じました。
価値観が完全に崩壊する瞬間を身をもって知りました。
そして、それまでにあった人間関係は全て捨てました。
友人だった人間を巻き込まないために、一方的に距離を取りました。
今みたいに高性能の警報装置がない時代だったので、灯油の貯蓄タンクに関しては、どんな些細な音でも聞き逃さない技術も身につけました。
クズは、何をするのか本当に理解できないので、それらの対応は必須でした。
※雪国出身なので、灯油のタンクが各家にある。
遊びで火を付けられたら、本当に洒落にならない事になります。
なにせ、それをされると家族が死にます。
そこまでしないという考えは投げ捨て、最悪のパターンを考え続けるハメになりました。
悪意から身を守る手段を知らなければならない
幸い、その後はそこまでひどいことはありませんでしたが、未だ背後に人がいると不安を感じます。
ゴルゴみたいに対応できればいいのですが。
上記の記事は、これらの経験を踏まえた上で書いています。
本当の最悪な状況になる前に、公的な暴力機関=警察を頼りましょう。
考えたくはないですが、それすら利用できない状況に追いやられた場合、嫌な覚悟の選択を迫られます。
暴力に屈するか、独自に暴力を行使するかの2択です。
なお、もし私が親になった場合、絶対に公立校には子供を通わせません。
お金をいくら使ってもかまわないので、私立学校を選ぶことにします。
そして、これもあまり考えたくないですが、自分の子供がそういったクズに成り下がるようであれば、私は親としてその「責任」を果たします。
※だから、一生結婚できないだろうな、と思うのも現実。
まとめ
未だトラウマになっていることの一つですが、未だにあの思考回路は理解できません。
なぜ、突き落とされたのか、突き落とされた人間を見て笑えるのか。
その行動を理解する必要はないと思いますが、そういった理解できない行動を取る人間が一定数はいることを理解しておかなければなりません。
冗談抜きで命に関わります。
一番良いのは、そもそもそれらと関わらないことなのですが、閉鎖社会(特に義務教育期間の学校)だと関わること自体を避けれないので、それを知っておくかどうかで、身の振り方が変わります。
余談
私がサラリーマン時代、「苦労をしてきていない」ということを何度も言われたのですが、それを言った人たちはどれだけのことをされてきた、してきたのでしょうか。
今となってはぜひ、問い合わせてみたいものです。