魚の捕り方を教えることの危険性
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便利な方法を教えるだけではいけない
皆さんは、「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ」と言う言葉は聞いたことがありますか。
物を与えるだけだと使ってしまえば終わりだけれども、ノウハウを教えることで、継続して物を得ることができるということです。
私はこの言葉に違和感を感じています。
教えるということの責任
上記の例で例えますが、魚の捕り方を教えるのならば、魚を捕りすぎると魚がいなくなることを教える必要があります。
そのことを伝え、そのルールを相手が守ることを確信した後に、初めてノウハウを伝えるべきです。
漁の例にしても、漁獲量が守られないために年々漁獲量が減っているという問題が発生しています。
高機能な捕獲機能の船(ノウハウ)を持つ人間が溢れ、漁獲量の規定(ルール)を守らないという結果の末、誰も得しない漁獲量の減少という結果になってしまっています。
人にあげるということ
「魚を与える」だけであれば、上記のような「ノウハウの乱用」を防ぐことができます。
物を与えてそれを消費されるだけなら、被害は発生しません。
しかし、ノウハウだけを持ち、倫理観・リテラシーを正しく持たない人間が増えることは、害をなしえます。
身近な例で言うと、インターネットの掲示板上の利用です。
掲示板を眺める(ROMる)だけであればそれ以上の問題は発生しません。
しかし、書き込み方だけを伝えて、インターネットの利用の際に気をつけることを一切教えなければどうなるでしょうか。
ITリテラシーがある人間が使う場合は、過激な発言を避ける傾向がありますが、それがない人間が増えると、過激な発言が増えます。
そして、過激な発言が続くようになると、その掲示板からは人が去ります。
結局、誰も得しない結果をもたらしてしまう可能性があります。
敢えて、「魚を与える」だけの選択を取ることも考慮する必要があるでしょう。
※「魚を与える」ことにしても問題が発生する可能性はありますが、今回の記事ではそれは記載しません。
どんなことでも思考停止してはいけない
「魚の釣り方」を教えるのであれば、その後にどういう結果になるのかを想像しましょう。
その結果が信用できるのであれば、ノウハウを伝えるべきです。
厳しい言葉になりますが、「信用する」ことと「思考停止する」ことは全く違います。
それが「悪用」・「乱用」できるノウハウであるのならば、教える側にも責任は伴います。
これの怖いことは、自分が知らないところでノウハウを伝えたことを恨まれる可能性さえあることです。
ダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベル氏は、本人が使っていない兵器により「死の商人」扱いをされ、自らの死亡記事を書かれる事となりました。
※兄の死が取り違えられ、本人がその死亡記事を読むという、何とも言えない事態となる。
そしてその新聞には、「死の商人、死す」と見出しが。
極端な例ではありますが、「ノウハウが悪用されることで、そのノウハウを用意した人が苦しめられる」という例においてはわかりやすいものです。
まとめ
物を与えるだけでなく、その物を創造するノウハウを伝えていくということは確かに大切なことです。そのことに異論はありません。
しかし、伝えるべきこと(ルール・倫理観)は正しく伝える必要があります。
そして、伝える相手を選ぶ必要があります。
そのノウハウが有用なものであればあるほど、思考停止せずに「信用する」ことが大切となります。
※過去に書いた似たような記事
↓リテラシーについて