なぜ貧乏になることはこんなにも恐ろしいのだろうか
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貧乏になることは怖い
当たり前のことでしょうが、貧乏な生活というのは辛いものです。
ですが、いままでの生活を振り返ってみると、私自身がそこまでの極貧に陥ったことは無いです。
ひと月の食費が1万円を切るように対応をしていた時期もありましたが、それでも生活はなんとかできている状態でした。
今に比べると貧乏であることを恐れてはいませんでした。
なぜ、今の私はこうも貧乏になることを恐れてしまっているのでしょうか。
お金を失うと連鎖的に「ナニカ」を失う
おそらく、一時的に貧乏になること自体はそれほど大したことではないでしょう。
今の私のように、5/27さえ乗り切ればリカバリが可能なタイプの貧乏であればさほど恐れる必要はないです。
ただ、その過程・結果で失うものがたくさんある場合、大したことのない不安が現実味を帯びた不安に変化します。
例えば、借金を絶対にしないと決めている人がどうしようもない状態になってしまって借金をしてしまう場合は、「それまでの信条や決意を投げ捨てる」ことになります。
お金を使って健康を維持していた場合、医師にかかることができなくなり「健康」を失う事になります。
時には「人命」にも関わってしまうでしょう。
借金をして一時を凌いだとして、その借金を返すことはできるのでしょうか。
その借金を返す意思は残っているのでしょうか。
借金をしたということ、返済できないということで、人からの「信用・信頼」を容易く失えることを私は知っています。
とある例を出します。
その時の私は貸す立場でした。
たかだか30万円の金額を、約束の期限にも返せず、遅延を申し込みに来るその様はとても惨めでした。
結局、2月ほど無利子で延期しましたが、その上で返済が行われなかった際は侮蔑すら感じました。
以前の記事で記載したかもしれませんが、こういった事例を一度でも許してしまうと、以降も同じことが起こりえます。
故に、絶対に徴収を行う覚悟を持って対応を行いました。
そして結果的に私は時間や疲労を犠牲に30万円を取り戻すことができましたが、お金を借りた方も多数のものを失ったでしょう。
- お金を返せない自身に対してのプライド
- 私からの信用
- 会社からの信用
絶対、ああはなりたくないという意味では大変に素晴らしい反面教師でした。
清貧*1という言葉の罠
「清貧」という言葉がありますが、これは一体どのような状態なのでしょうか。
お金がなくても、生活を維持できる状態が整っているから、貧乏であっても良いということなのでしょうか。
ようは、お金以外に失うものがない状態であれば、そのように振る舞うことができるのかもしれません。
しかし、そのような状態はとても特殊な状態です。
完全に自給自足できていて支払う必要がある物が税金くらいなのであれば「清貧」な生き方も可能なのでしょうが、現代社会で完全な自給自足ができる人はどのくらいいるのでしょうか。
まとめ
私が恐れているのは、貧乏になることというよりも、そうなることで失う物ができたからでしょう。
昔は多少失敗しても、さして失うものは多くありませんでした。
しかし、今は貧乏になって精神面で「苦痛」を得たり、「健康」や「社会からの信用」を失うことはその後の生活・生き方に大きく影響します。
貧乏になって大切にしてきたものを失うくらいなら、「ケチ」だとか、「守銭奴」だとか言われても、褒め言葉と受け取れるくらいの気でいかなければならないのです。
*1:無理に富を求めようとはせず、行いが清らかで貧しい生活に安んじていること。